懐かしんでくれる誰かのために
昭和の団地、50年前住んでいた「雇用促進住宅」。
名前はちょっと強烈だけど、実際に住んでみると、意外と暮らしやすかった。家賃は月2千円台。
子供だった私は敷地内で毎日思い切り遊んでいた。
今思えば、団地全体が“生活の輪郭”だった気がする。
その建物がリノベされて「ビレッジハウス」として現役だと、最近知った。
外だけ白く塗られて、中身は昔のまま。
懐かしいような、少し怖いような——
そんな記憶の話を、あの頃を懐かしんでくれる誰かのために、書いてみました。
思い出の間取りと“あの頃”の暮らし
最近ネットで見つけてしまった。
昔住んでいた団地が、いまは「ビレッジハウス」として貸し出されている。
名前こそ変わってオシャレっぽくなってるけど、間取りを見た瞬間ゾッとした。
「あっ……この部屋、知ってる」。
外は白くリノベされてるけど、中身はほとんど昭和のまんま。
キッチンの狭さ、低い流し、押し入れの感じ、洗濯機置き場の位置まで
——記憶が、間取りとぴったり重なった。
あれは「雇用促進住宅」という名のアパートだった。
いま聞くとちょっと笑えるほど、直球な名前。
「働ける人はここに住んでください」っていう、国のメッセージがそのまま建物名になってる感じ。
間取りは、6畳と4.5畳の部屋に、作業できるスペースだけのキッチン。
収納は6畳側に押し入れがひとつ。ベランダには洗濯機置き場があり、トイレ。
そしてお風呂は、ほんとうに小さくて、足をのばすなんて夢のまた夢だった。
トイレだけは洋式で、当時としてはかなり最先端だったらしい。
和式が当たり前だったあの時代、あの洋式トイレはちょっとした驚きだった。
貧しくても、子どもたちは仲が良かった
小学生のころ住んでいたその団地は、家賃が安くて、部屋はコンクリ打ちっぱなし。
音は響くし、冬は底冷えする。
でも、近所には同じような家庭がたくさんいて、なんだかんだで安心感もあった。
当時、学級新聞のネタにもなってしまい、私の家まで押しかけて取材された。
ネタの内容は、なんと「家賃の安さ」。
もう50年前の話だけど、一ヶ月の家賃が2〜3千円だったような気がする。
今では考えられない数字だけど、取材された私は少し恥ずかしかった。
今から思えば、住んでいた住人たちもどこか少し“訳あり”な雰囲気だった。
うちは、父の実家を急に出なければならなくなった若夫婦+子供一人組。
ほかには、母子家庭で「お妾さんじゃないか」という噂があった家庭、障がい児を育てる家庭。
当時はサリドマイド児も珍しくなかった。
みんな収入が厳しい中で、ここにたどり着いていた。
でも、子供同士はとても仲が良かった。
アパートの敷地内には、今思えば公園のように広い遊び場があって、
毎日そこで泥だらけになって遊んでいた。
鍵っ子の現実と誇り
大抵の場合、親が共働きで、子供たちは“鍵っ子”だった。
学校から戻って、親が帰ってくるまで、みんなで団地の公園で過ごすのが日常で、それがとても楽しかった。
でも一方で、学校では「鍵っ子=かわいそうな子」と見なされる空気があり、
どこか寂しさもあったのかもしれない。
昭和と現代のズレ
あれから何十年も経って、団地の名前だけがカタカナになっていた。
中身は変わらず、今も誰かがそこに住んでいる。
安くて、最低限の暮らしができる。
でも、安心はどこまでついてくるんだろう?
外見だけ白くなった建物を見ながら、「これって今の社会そのものかもな」って思った。
体裁はきれいに整えて、でも中身は古いまま——仕組みも、制度も、そして人の孤独も。
たとえば「こども家庭庁」。名前だけ見ると“未来志向”だけど、出てくる政策は、昭和からほとんど進歩していない。「こどもまんなか社会」なんて言葉だけは立派。でも、がんばれない家庭や声を出せない親たちは、そもそも想定されていないように見える。こういうのを見ると、つい「アホなの?」って思ってしまう。
「こども家庭庁」の政策を見れば見るほど、
あの「雇用促進住宅」って、ずいぶん優秀だったんじゃないかとも感じる。
すごく安い賃料で、実際に私たち家族は助けられた。
あれは、制度がきちんと“暮らし”に寄り添っていた時代の名残だったのかもしれない。
ほんとうに変わるべきもの
リノベーションじゃなくて、本当に必要なのは「暮らし」の更新なのかもしれない。
めちゃめちゃ、古い話でした(笑)
またね!
※アイキャッチには、イラストACのエトユニグラフィックさん(作者ページ)の素材を使用しています。
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