「学歴がない自分は、何かが足りない」──そんなふうに感じること、ありませんか?
肩書きがない自分を、どこかで引け目に感じてしまうあなたへ。
この記事では、60代の私が抱えてきた学歴コンプレックスと、その向き合い方をお話しします。
「まだそんなことで?」と思いつつ、気になる“あの頃の通知表”
Facebookが盛んになり始めた頃。
昔の同級生たちが、◯◯大卒、△△勤務とプロフィールを堂々と書いていて、
「あれ?私はなんて書けばいいんだろう」と手が止まった。
気付いてしまったのだ。
名の知れた大学を卒業した人だけが発信して良い、しゃべっていい、世の中なのだと。
私は高卒なので、村人。
名前もないし、発信もしていけない存在なんだと思った。

なぜ学歴コンプレックスは根強いのか?
この社会には、「どこを出たか」で人の価値を測る傾向が根強くある。
就職活動でも、家庭でも、「いい大学に行きなさい」という空気が当たり前だった。
学歴が“切符”だった時代に育ち、学歴があることで人生が違うと信じていた。
でも今になって思う。
学歴があるということは、少なくとも受験勉強の努力を重ねたという証。
実際、優秀な人が多いのも確かだ。
あの年齢で、あれだけの知識とプレッシャーの中で結果を出すのは、
やっぱりすごいことだったと、今なら素直に思える。
日本では現在、大学進学率が約60%。成人(25〜64歳)のうち、
大学に進学していない人も約40〜45%いる。
つまり、大学を出ていない人は少数派ではなく、実はけっこう多い。
ただ、都市部では「大学進学は当たり前」という空気があり、
就職や人間関係の中で「どこ出たの?」が無意識に判断基準になっているのも事実だ。

最近では、芸人さんがニュース番組で“有識者”的に振る舞って炎上することもある。
「知識もないのに…」という声もあるけど、
よく見るとその背景には「誰が話していいのか?」という学歴や肩書きへの視線がある。
たしかに、知識のある人に憧れる気持ちは私にもある。
「私も、学があればもっと説得力のあることを言えたかも」なんて思うことも。
ちょっと賢そうに見せたくなったり、自信のなさを隠すように言葉を飾ったり。
そんな風にして、なんとか自分の存在を“認めてもらおう”としてきたのかもしれない。
運よく夢に近づいたけど、それでも辛かった
それでも私は、運よく美大を出た人が進むようなルートの仕事に就いた。
出版社のデザイナー募集に応募して、まさかの入社。
だけど、そこからが試練だった。
「どこの大学でした?」「美大でしたか?」と聞かれるたびに、
「大学では学んでません」「独学です」と答えるしかなかった。
初対面の打ち合わせが怖かった。
本当にここにいていいのか? 足りない自分を見抜かれないか?
毎回ビクビクしていた。あの頃がいちばん辛かったかもしれない。

フリーランスになってようやく解放された
そんな中で、ようやく自分が「学歴の呪縛」から解放されたなと思えたのは、
フリーランスになったときだった。
もう、どこ出たかなんて関係ない。
「どこ大学よりも、一人で食べてるほうがすごいね」と、
地方では素直に認めてもらえたのだ。
結果を出していればそれでいい。
肩書きじゃなく、今の自分の“動き”や“生き方”を見てくれる人がいる。
それがどれだけ救いだったか。

それでも残る気持ちと、自分への許し
とはいえ、都会だと、やっぱり「どこ大学?」がずっとついて回るのかもしれない。
成功した企業の経営者が「中卒です」とか「田中角栄も中卒」と言っているけど、
それは人間力のスケールが違う話だ。
一般人にその話をそのまま当てはめちゃいけないと、私は思う。
だからこそ、学歴コンプレックスがある人が
賢そうに振る舞いたくなる気持ちも、すごくよくわかる。
60歳になった今でも、
自分には教養がない、学歴がない──そういう思いは心のどこかに残ってる。
でも、今から大学に入りたいか?といえば、そうでもない。
勉強したい気持ちはあるけど、肩書きがほしいわけじゃない。
ただ、自分の中の“わかってない感じ”に折り合いをつけたいだけ。

最後に、自分への言い訳とこれからの生き方
きっとこれは、言い訳かもしれない。
でも、私はこう考えるようになった。
人生のゴールで、満足できることを目指す。
最終的にテープを切るその時に、
「私は体も頭も心もお金も、ちゃんと使い切った!」って言えたら、
それで自分を許してやろうと思った。
それで、いいよね。
過去には戻れないし──たとえ戻れたとしても、私はきっと進学してないから。
またね!

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